「共生を支えるカップリングについて」


大阪大学文学部教育学科心理学専修 教授教授 野村 幸正 先生


今、田舎暮らしがちょっとしたブームである。それは、1つにはわが国の直面している社会状況の現れであろうが、新しい社会の前兆であるとも思われる。野村先生は現在過疎の村での生活を送っておられるが、農村での現状を次のように語られた。

 以前、農村では主食である米が盛んに育てられていたが、政府の方針により作物の転換が図られた。いわゆる減反政策によって、植林、または果物等の栽培へと切り替わった。しかしながら、30年後の現在、木材は中国などの安い輸入材との競争、また高い人件費等の影響によりまったく売れなくなり、村は崩壊の危機に陥っている。

 よって、人から与えられるようなインタフェース、第3者から見た理想のものというのは、結局はそこに生きる個々人の構想力、生きる力を減じるのではないか?すなわち、内部観測(かかわり)からみたインタフェースの思想、設計が求められるものと思われる。

 次に共生(living together, synbiosis)とは何かということについて述べられた。共生というのは根源的経験を育む矛盾、葛藤(共同体での生ける身体の構築)を受け入れることにある。また、共生の場というのは、主観―客観関係を越えて、この関係全体を支える無の場所であろう。そこでは、通常とは逆に、直感が能動、行為が受動になる。したがって、この場合の振る舞いは即興的であり、少しのぎこちなさもない(西田幾太郎のいう「行為的直観」参照)。

 また、共生は矛盾、葛藤、時には生命をかけた戦いの中で獲得されるもので、他者から与えられるものでは決してない。それは出来事に、中でも困難な問題に直面した共同体が、またその構成員が克服してゆく中ではじめて成立する。さらに、共生は自己と他者との間で存在の相互肯定、および濃密な人間関係の構築を前提とする。さらに、状況に埋め込まれた学習が共生社会に不可欠である。共生は新しい学び、世界観に依拠したものであり、動的な関係を前提とする。

 最後に、人間の生活は外から見ることができない。よって、共生を考えるとき、自分がどう関わっていくかを見る必要がある。現在、共生が叫ばれるようになったのは人との関係、例えば家庭、地域コミュニティとの関係が希薄になってきたからであるように思われる。ヒューマンインタフェース学会での議題の1つである機械と人間との共生が昨今議題に上るようになってきたのは、機械と人間の関係も難しくなってきたという背景があるのではないかと思われる。


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